ブイヨンキューブとコンソメ、そして創造力の歴史
「マギー」ブランドを創設し、その名を今もブランド名として残すジュリアス・マギーは一生懸命な人物でした。1890年代、マギーは、塩やこしょうのようにどこにでもある食品を創り出すことを夢見ていました。手ごろな価格で労働者の栄養となり、誰もが忘れることのないブランドとなる食品です。
今日、「マギー」ブランドの調味料、スープやだしは、ネスレにおいて、10億ドルの売上を持つブランドの1つです。パッケージ上にある、世界中で変わらぬ独自の赤と金、そして彼の名前は全世界で知られています。ジュリアスは、彼自身の途方もない夢を上回る成功を収めました。
イタリア出身の工場オーナーの息子だったジュリアス・マギーの会社は、スイス・チューリッヒに近いケンプタールという村に拠点をおき、小麦粉を製造していました。あまり知られていませんが、マギーは予知能力に魅了されており、伝えられているところでは、彼は未来を予見できると信じられていたようです。
彼は、洞察力に優れ、先見の明のあるビジネスマンで、労働世界の変化が食習慣に及ぼす影響をすでに予見していました。従来、女性は家族に食事を用意していましたが、工場などの仕事場で過ごす時間が増えると、台所で過ごす時間が減っていきました。ジュリアスは、栄養価が高く、満腹感があり、短時間で調理できる食品が必要になると認識していました。1882年、彼は同じように先見の明のある医師に出会います。それは、彼の会社、そして数百万の人々の調理方法を変える出会いでした。
豆の可能性
フリードリーン.・シューラー博士は、低栄養と疾患や乳児の死亡率の高さには関連性があると考えていました。博士は、スイスの労働人口の生活改善を目指す、スイス公共福祉協会の一員でした。栄養のある肉は、一般の人々にとっては、なけなしの予算を超える金額です。シューラー博士は豆 – 栄養に富み、消化しやすい – が解決策になると確信していました。
これらの考えからインスピレーションを得て、巨大な未来市場の可能性を予見したジュリアス・マギーは、豆を原料とした新しい粉を創り出すことに着手します。2年間の研究を経て、彼は粉末にした豆の粉を発売しました。続いて、1885年には、世界初のインスタントスープを、そして1886年、コンソメ、スープやソースのベースを作る濃縮液体ブイヨン 「マギー」 シーズニングを発売しました。「マギー」 シーズニングは食品の風味を高めて改善する、他に類を見ないものでした。
ジュリアス・マギーは、飽くなきイノベーターでした。カレー、亀肉風フレーバーのインスタントスープ、トリュフフレーバーの「マギー」 シーズニング、すべての製品がますます洗練されるビクトリア時代の嗜好に訴求するよう設計され、伝統的な野菜のスープとともに提供されました。 これらの製品は瞬く間に成功し、「マギー」は世界中に拡大し始めます。1888年までに、ジュリアスは支店や関係会社をドイツ、フランス、イタリア、イギリスと米国に開設していました。
十字のマーク、そして色
ジュリアス・マギーは、消費者のロイヤリティを獲得するため、力強いブランドアイデンティティの重要性も予見していました。「マギー」のブランドを保護し宣伝するために、いかなる苦労も惜しみませんでした。
1900年までに、ジュリアスは、彼のサインと名前のバリエーションを複数の国でさまざまな活字書体で登録しました。スイスでは、18もの異なる彼の名前 – MagiからMagiqueにいたるまであらゆるものを – 偽者から守るために保護しました。
当初から、「マギー」製品とその宣伝素材は、その濃い赤、金、黄、黒色で、瞬時に識別することができました。今日でも、アフリカで販売される多くの「マギー」製品にある十字の星のシンボルは、ジュリアス・マギーがデザインしたものです。
PRのパイオニア
ジュリアス・マギーは、宣伝にも投資しました。食品店の外に掲示する、エナメル加工した張り紙を初めて使用したのは彼でした。彼は、若いコピーライターや画家を雇いました。「広告の父」とよく呼ばれるレオネット・カッピエッロもその1人です。多くが、著名な脚本家、作家やアーティストになりたいと考えていました。
ジュリアスは、公共交通にも宣伝の機会があると考え、路面電車、鉄道や馬車でポスターによるキャンペーンを始め、パリでは、セーヌ川を航行するバトー・ムッシュでも行いました。
「マギー」のトラックは、街角に置いた銀色の壺から、温かいスープとブイヨンの無料のサンプルを提供しました。そして、顧客向けのロイヤリティプログラムを初めて実施しました。顧客は、コーヒーメーカーから日本製の漆塗りの棚まで獲得することができました。
クラシックなキューブ (Kub)
ジュリアス・マギーの製品の中で最も象徴的な製品は、ブイヨンキューブです。ジュリアスは、インスタントだしを完璧なキューブに形作り、ブランド独自の色で包装し、Bouillon Kubと命名しました。全体が子どものおもちゃのようでした。ジュリアスは、消費者に「Kが必要!」と促しました。その素晴らしい響きは、競合企業から激しく模倣されました。発売から数年の内に、Bouillon Kubは当時を象徴する物になりました。それは、キュービズムの芸術家であるパブロ・ピカソの絵画の中にも登場するほどでした。
「マギー」は1947年、ネスレによって買収されますが、自然なめぐり合わせでした。どちらもスイスの企業で、食品に対して先駆的で先見の明のあるアプローチを行っていました。
ジュリアス・マギーが思い描いたように、今や彼の製品は世界の至るところに存在しています。そして、彼が創り出した乾燥野菜スープがヨーロッパの労働階級層の栄養となったように、現在では、中所得や低所得国向けの「マギー」製品は鉄分などの微量栄養素で強化されています。
ジュリアス・マギーは、製品は手ごろな価格を維持すべきだと決めていました。現在、アフリカ、アジア、ラテンアメリカでは、包装形態を小さく、手ごろな1人用にしていますが、ジュリアス・マギーは間違いなくこれを良いことだと認めるでしょう。
ジュリアス・マギーの創造性あふれる精神は、30カ国で運営されている料理教室プログラムでも生き続けています。消費者が毎日の食事で「マギー」製品を使用し、野菜や全粒穀物の摂取を増やすことを推奨しています。
*記事内のデータは2016年時点のものです。